〜第U章 竜童組〜

その1 『竜童組』誕生(2000/4/22up)
俺のおふくろは、琴の先生をしていた。
生田流という四角い爪を使い、琴に対して斜めに構える流派だ。
子供の頃は毎日琴の音を聞きながら育った。
俺も少しだけ習ったことがある。しかしそれも長くは続かなかった。
ギターと出会い、ビートルズに憧れた子供にとって、琴はどうも辛気臭かった。
それからというもの、日本の音楽を否定し、洋楽一辺倒に育ってきてしまった
俺だったが、このアメリカ旅行で確実に何かが変わった。
ブルースが大好きだったが、本物の凄さを痛感し、今までバカにしていた
日本の音楽「赤とんぼ」に涙した。
俺は日本人だ。俺における本物をやらなければ世界では通用しない。
そんなことを思いながら日本に帰ってきた。

すっかり遊んでしまったので、ともかく仕事をしなければと思い、
真っ先に俺の師である宇崎竜童氏の元へ行った。
氏は、映画の撮影も順調に終わり、「さあ音楽やるか!」という状況だったようで、
早速仕事の話を頂いた。『カムイの剣』という忍者もののアニメの映画音楽だ。
当時隆盛を極めていた角川映画の作品で、原作は矢野徹氏、監督はりんたろう氏。
後日、音楽スタッフが集められミーティングが開かれた。
そこで宇崎氏は「今回は和太鼓を使ってやりたいんだ。」と言った。
氏のアイディアにはいつも驚かされる事が多かったのだが、この時は本当に驚いた。
和太鼓? いったいどんなサウンドになるんだろう。

集められたのは10人のミュージシャン。
ギターはこの俺と金子マリ&バックスバニーの永井充男、ドラムにクリエーションの樋口晶之、
ベースにネイティブ・サンのロミー木下、キーボードにカルメンマキ&オズの川崎真弘、
アルトサックスに東京ユニオンの柳沼寛、テナーサックスに
現在もサザンオールスターズでプレイしている包国充、ハープに田中太郎、
バイオリンに広瀬由美子、そして和太鼓奏者はあの林英哲氏。
70年代の日本の音楽シーンを支えたつわものばかりだ。
「大先輩達に混じって何で俺が?」
不安と期待を抱えながらレコーディングに入った。
音が出た瞬間、正直言ってぶっ飛んだ。「和太鼓凄いよ!カッコイイじゃん!」
みんながそう叫んだ。「日本の音だよ これ!」
アメリカで感じ、悩んだことが一瞬で解決してしまったような気がした。
偶然とは思えなかった。運命だったのだろう。

順調にレコーディングが進んで行く中で、宇崎氏が言った。
「このサウンドでライブやりてえな。」
『竜童組』の誕生である。
その2 始動(2000/4/24up)
六三四Musashiを語る上で避けては通れない、竜童組について話を進めよう。

映画『カムイの剣』のサウンドトラックのレコーディングが順調に終わり、
その打ち上げを兼ねてだったと思うがメンバーが召集された。
レコーディングはパートごとに作業が進められるため、
その時初めて顔を合わせるメンバーも何人かいた。
クラシック、ジャズ、ロック、そして和太鼓と普段余り接点のないジャンルの
10人のミュージシャンが宇崎竜童氏を中心に集まった。
場所は赤坂にある「やっち」という居酒屋だ。
飲み屋からスタートしたいという宇崎氏の意向だったようで、
それはきっと畑違いのミュージシャンが集まることに対する配慮だったのだろう。
宇崎氏は一見強面で、何でも強引に押し通していくようなイメージがあるようだが、
実は細かい気配りをいつも忘れない、ミュージシャンには珍しいタイプの人だ。
俺は未だに、叱られることが多いのだが、氏の優しさにはいつも敬服しており、尊敬している。
ともかく飲み会が始まり、宴もたけなわの頃、宇崎氏が言った。
「日本人の血の中にある音楽をやりたいんだ。皆でライブやろうぜ。
ギャラはほとんど払えないかもしれないけど。ワッハッハッハ!
実は名前ももう考えたんだ、『竜童組』でいこうぜ!」
誰も異論は無かった。『竜童組』いいネーミングじゃん!
その場にいられたことが俺は嬉しかった。

リハーサルは宇崎氏の事務所の上にある、氏のプライベートスタジオで始まった。
それぞれ個人の活動もあったため、全員が集まることも容易ではなかったし、
まずはサントラで作った楽曲をライブ用にアレンジしようと、
ギター、ベース、ドラムス、キーボードのリズム隊のメンバーと宇崎氏の6人でスタートした。
『カムイの剣』で作った楽曲は、3部構成の組曲『カムイ』に生まれ変わった。
そして民謡八木節をアレンジした『八木節イントロデュース』、
蜷川幸雄さんの舞台音楽で作った『十六夜小夜曲』、
かつて宇崎氏が林英哲氏に書き下ろした『風島』、
新たなオリジナルとして『数え歌』など、
後の竜童組の核となる作品が次々に生まれた。

何回か小編成でのリハーサルが重ねられ、いよいよ全員で音を出すことになった。
年も押し迫った12月頃だったと思う。
場所は軽井沢の「北軽ホリデー」。バンドリハーサルのできる合宿施設である。
寝食をともにしながら、中身の濃いリハーサルが行われたが、
一緒に音を出してみると、レコーディングでは気づかなかった問題にいくつかぶちあたった。
和太鼓の低域が思っていたより音程感があってベースとぶつかるのだ。
そして、とにかくデカイその音量、正直言ってみんなが戸惑った。
しかしそこはツワモノぞろいの竜童組、
「チューニングのできない大太鼓はソロで使おう」
「アンサンブルはチューニングのできる桶太鼓や締太鼓でいこう」
などと何でも前向きに解決し、今までになかった日本の音が生まれていった。
その3 初ライブ(2000/4/25up)
竜童組の初ライブは1984年12月20日、関西のTV番組での
スタジオライブだった。それも特番スタイルの単独出演だ。
何という恵まれたスタートか。
ライブデビューがTVなんて、六三四では考えられなかったし、
残念ながら、未だに単独出演のスタジオライブなどという話は
頂戴したことがない。
「そのうちお呼びがかかるだろう。」と思いながら、
10年も経ってしまったのだが、実は今だにそう思い続けている。
自分で自分を誉めてやりたい。

話がそれてしまったので元に戻そう。
この番組はいわゆる公開番組ではなく、お客さんが全くいないスタジオでの
収録だったため、ライブという感じではなかった。
TV局のスタッフの方々には「イヤー凄いですねえ。」「感動しましたよ。」
等とおっしゃって頂いたのだが、やはり観客のリアクションを
リアルタイムで感じたいのがミュージシャンの性だ。
早くステージで演奏したかった。
そして12日後、いよいよその日がやってきた。
1985年1月1日、渋谷パルコ劇場。ニューイヤーロックフェスだ。
元旦に舞台デビュー。ステージ後方には竜童組の大漁旗が飾られた。
実に竜童組らしい演出だ。
出演者には故松田優作さんや、ビートたけしさんの名前もあった。
出番は確かカウントダウンの直後だったと思う。
セッティングが完了し、裕也さんのMCが入った。
「ファッキンロックンロール!竜童組!」
「ん?…」と思ったが、宇崎氏の「行くぜ!」という声でステージに上がった。
演奏が始まると、観客はあっけに取られたのか 静まり返っている。
そりゃそうだろう。見たことのない編成、聞いたことのないサウンドだ。
しかし演奏が終った瞬間、その静寂は大歓声に変わった。
その4 破竹の勢いで・・・(2000/4/28up)
動き出した竜童組のパワーはすさまじかった。
ライブハウスツアーからスタートしたのだが、その数は半年で50本を超え、
春先からは全国各地のお祭りやイベント、学園祭、ロックフェス、
ジャズフェスなどからの出演依頼が殺到した。
そしてフジテレビの「夜はタマタマ男だけ」というゴールデンタイム枠の番組に
レギュラー出演し、その知名度は飛躍的に伸びていった。
1985年12月には初のアルバム『竜童組』をリリースし、
お祭りバンド@ウ童組はものすごいスピードで、階段を駆け登っていった。
活動1年目にして、ライブは100本に迫り、その間を縫って
TV出演、レコーディング、CM音楽などの仕事をこなしていった。
文字通り順風満帆の船出であった。

1986年9月にはニューヨークのパラディアムで5000人の観客を動員し、
初の海外デビューを飾り、1987年には、メキシコシティー、
そして日本のロックバンドとしては初の中国公演となった上海、北京、
1988年にはオーストラリア ブリスベーン、イギリス エジンバラ、
そして2年連続の公演となったメキシコシティー、1989年にはパリと世界を駆け巡った。
観客はいつもスタンディングオベーションで竜童組を称えてくれた。

国内でも通常のコンサート、イベント出演は毎年70〜80本あり、その他にも、
『NHK紅白歌合戦』、そして東京ドームでブルーススプリングスティーン、
ピーターガブリエルらと共演した『ヒューマンライツナウ』、
静岡県身延山にある久遠寺の境内で能の観世栄夫氏と共演した
『能vsロックin身延山』等のビッグイベントにも数多く出演した。

1990年その活動を休止するまで、俺にとっては毎日が竜童組であった。
素晴らしい経験をさせてくれた、竜童組のメンバー、スタッフ,ファンの皆さん
そして宇崎竜童氏に心から感謝している。
その5 “日本人で良かった!”(2000/5/1up)
前述のような超過密なスケジュールで活動を続けた竜童組だったので、
お話したいエピソードは山のようにあるのだがそれを一つひとつ書いていると
いつまでたっても六三四に辿り着かないので、残念だが割愛させて頂く。

竜童組は俺にとって本当に貴重な体験であった。
その筆頭は海外公演だろう。当時海外であれだけ公演を重ねたグループは
他には無かったのではないだろうか。
それも殆どが5000人を超える規模の会場での公演だ。
俺が海外のステージに立ち、最も誇らしく思えたのは、
日本人として日本人らしい音楽を奏でているという現実だった。
この点に関しては異論を唱える方もおられるだろう。
日本人でありながらグローバルに認められ、
活躍されているミュージシャンが多数おられるし、
その方たちにとっては日本人という枠など関係無く、
一人のミュージシャンとして世界に立ち向かっているわけだから、
俺のような考え方は閉鎖的な島国根性の投影だなどと
一笑にふされるかもしれない。

だが俺はステージの上で感じてしまったのだ。
「日本人で良かった!」と。
これはすこぶる快感だった。その事を今の六三四のメンバーにも感じ、
味わってもらえたらといつも願っている。
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