〜第V章 六三四Musashi創世記〜

その1 和太鼓と茂戸藤浩司(2000/5/8up)
竜童組はその活動を続けていくうちに、音楽的にいろいろなチャレンジをするようになった。
沖縄やアジアの音楽を取り入れたり、エスニック、アフリカンミュージックなども貪欲に吸収していった。
それはそれで刺激があったし、常に前向きなその姿勢は十分に評価されるべきものであるとは思うが、
俺は逆にもっと日本にこだわりたいと思うようになっていった。
竜童組における邦楽器は和太鼓のみであり、活動2年目に林英哲氏が脱退してからは
宇崎氏が和太鼓を担当しプレイしていた。
氏は努力家で、いつも体を鍛えながらその重責を果たしていたのであるが、
俺自身も和太鼓をやってみたかったし、組太鼓のエッセンスを勉強したいと思ったので、
氏に相談したところ大江戸助六太鼓で短期集中講座を受けるよう手配してくれた。
そして殆どのメンバーがその講座に通うことになり、文字通り四十の手習いが始まった。
(俺は30代だったが…)

ところがである。たった1度の稽古でもう体はボロボロ。
顔を洗うこともコーヒーカップを口に運ぶことさえできないのである。
翌日は全身が筋肉痛に襲われ、本業のギターを弾くことさえおぼつかない状態だった。
ミュージシャンにとっては生命線を絶たれるようなものである。
他の殆どのメンバーは一度の稽古で危機を感じやめてしまったが、
俺は言い出しっぺの責任もあり、元来が意地っぱりな性格であることが災いして、
8回あった稽古全てに参加してしまった。
今思えばアホである。

その経験を通してわかったことは、俺には和太鼓なんて到底できないし、
何事も付け焼刃でできるものではないということだった。
特に体を酷使する和太鼓はその見本のようなものだろう。
改めて和太鼓奏者の皆様方に敬意を表することになったのである。

その稽古の時に大きな出会いがあった。
俺達に指導をしてくれたのが、後に六三四の和太鼓プレイヤーとなる茂戸藤浩司だった。
最後の稽古が終り、打ち上げということで酒を酌み交わした。
彼の和太鼓に対する思いや、竜童組に対する憧れなどを肴に遅くまで飲んだ。
彼はその席で「竜童組でプレイしてみたい」と何度も言っていた。
俺はそういう前向きなエネルギーを持った奴が大好きである。
自然の流れで、俺は彼を宇崎氏に紹介し、レコーディングに参加できるよう掛け合い、
何度か手伝ってもらうチャンスを作ったりしたのだが、
残念ながら彼が竜童組に入ることはかなわなかった。

そしてもう一人同じ時期に運命的な出会いがあった。
津軽三味線奏者、木下伸市である。
その2 津軽三味線・木下伸市(2002.5.31up)
竜童組が世界中のいろいろな音楽を吸収していくにしたがって、
日本の音楽を追及できなくなっている事に、物足りなさを感じている自分がいた。
この事が六三四Musashiの結成につながっていく。
あくまでも俺は日本にこだわって音楽をやりたいという思いが強かったのだ。

 茂戸藤浩司(以後、ヒロシと呼ばせていただく)とはそれ以後よく話をするようになった。
彼の並々ならぬ太鼓への情熱も手伝って一緒にバンドでもやろうかなという気持ちが沸いてきていた。
ちょうどその頃、松浦金時(元ドラマーだったのだが、いつのまにかヴォーカリストになっていた。以後、金時と呼ばせていただく)という昔のバンド仲間から、「日本的な音楽やりたいんだけど、手伝ってくれないかな」と相談を持ちかけられた。
何というタイミングだ。
「アレンジぐらいなら手伝うよ」という程度の軽い気持ちで引き受け、ヒロシを誘ってみたら、
彼も乗り気でとりあえずリハーサルをすることになった。
と言っても、金時の自宅に集まって曲作りという地味な状況で、金時が作る曲を俺がアレンジして、
ちょっとお笑い系の妙な曲がいくつかできあがっていった。

 あいかわらず日本全国を駆け回っていた竜童組であったが、
ある時、北海道で伊藤多喜男バンドというグループと共演する機会があった。
彼等は洋楽器と邦楽器を使って民謡を演奏するグループで、当時の俺は民謡にはあまり興味が無かったのだが、
舞台の袖で彼らの演奏を見ていて、津軽三味線に目が釘付けになった。
これがとにかく凄い。正確なピッキングとリズム感、フレーズの多彩さ、何よりもその迫力と音色!
魂が揺さぶられるほど感動してしまった。
彼らのステージが終わったとき、すぐに声をかけていた。
「ねえ一緒にバンドやらない?電話番号教えてよ!」 まるでナンパだ。
その男が、現在津軽三味線で実力ナンバーワンと言われる木下伸市だった。
向こうも突然のことに不信そうな顔をしていたが、すぐに意気投合し電話番号を聞くことに成功した。
俺は三味線界のことなど全く知らなかったし、「若いのに凄い奴がいるんだなあ」ぐらいにしか思っていなかったが、
すでにその時の彼は全国大会で2年連続優勝をしたというツワモノだったのだ。
俺もなかなか見る目あるジャン!

その3 六三四Musashi”という名(2002.5.31up)
その後、東京に戻って伸ちゃんをメンバーに加え早速リハーサルを始めた。
ベースには、金時が音楽仲間だった浅井慎一(彼は後に六三四Musashiのファーストアルバムに収録された隠れた名曲「SHIZUKA」の作曲者となる)を連れてきた。
編成は小針克之助(ギター)、茂戸藤浩司(和太鼓)、木下伸市(津軽三味線)、浅井慎一(ベース))そして松浦金時(ヴォーカル)という5人だ。
小さなライブハウスで2〜3ヶ月に一度ライブをやる程度だったが、ギターをもう一本足してみたり、
手作りのパーカッション奏者を入れてみたり、編成はそのたびに変わった。
でもドラムやシンセには何となく抵抗があって入れようという気にはならなかった。
ほとんど遊び気分で始めたバンドだったのに、変なところにはこだわっていたようだ。

このころ、六三四Musashiという名前を思いついた。
それぞれの数字は、楽器の弦を表す。"六"はギター。"三"は津軽三味線、"四"はベース。
この3種類の弦楽器と和太鼓でサウンドを作るグループ六三四Musashi。
実にいいネーミングだ。そう思った。

そしてもうひとつ、"六三四Musashi"という名前にするのに大事な要素があった。
それは剣豪"宮本武蔵"の存在である。
宮本武蔵は多くの方が御存知であろうが、二刀流という剣術を編み出し、晩年「五輪書」といわれる本を残した、当代隋一の剣豪であり、哲学者だった。
そしてそれだけにとどまらず書画においてもその才能を発揮した芸術家でもある。
彼の持つ『日本を代表するサムライ』というイメージと、それだけに留まらない『芸術家としての感性』そういった色々なことが俺の頭の中で明確に一致し、バンド名"六三四Musashi"は当然のように決まってしまった。

その4 和太鼓奏者・大塚 宝登場(2002.5.31up)
しかしこの編成ではリズムの面でちょっと物足りなさを感じ始めていた。
ドラムという完成された打楽器に比べると、和太鼓は実に不器用だ。
ドラムは一度に両手両足を使って4種類の音を出せるだけでなく、ベースドラム、スネア、タム、
そしてシンバルと役割がはっきりとした多彩な音色をたった一人で操り、いろいろな表現が可能なように作られている。
それに比べて和太鼓は「ドン」と「カッ」だけだ。(「テン」と「ツク」もあるが…)
なおかつ、足は踏ん張って立っていることにしか使わない。
「とりあえずシンバルは欲しいかな」と思ってヒロシにシンバルを打ってもらったりもしたのだが、
太鼓の撥でシンバルを打っても音がぜんぜん違うし、何よりカッコ悪いこと極まりない。
仕方なくシンバルについては保留にして、別の形でかっこいいリズムを刻めないかなと考えていた時、
低音の太鼓と高音の太鼓をフレーズを分けて叩けたらカッコヨクなるんじゃかなとひらめいた。
「ようしもう一人和太鼓を入れてみよう!」
俺はこういうたいせつなことを結構安易に決める癖がある。
早速ヒロシに相談すると「もう一人入れるなら、こいつしかいないですね。」
そいつが、大塚宝(以後、タカラと呼ぶ)だった。

 彼のことは俺もすでに知っていたし、そのプレイも見ていたので大賛成した。
数日後、話を持ちかけてみようということになり、リハーサルスタジオにタカラを呼んだ。
「とりあえずリハやるから見ててよ。」と言って、俺達はリハを始めた。
そして二時間ほどたった頃、宝が突然スタジオを出ていった。
トイレでも行ったのかなと思っていたら、いつまでたっても戻ってこない。帰っちまった…。
「どうなってんだあいつ」と思っていたら、その夜、タカラから電話がかかってきた。
「途中で帰っちゃってすみません。用事があったんですけどリハーサル中に声かけたら悪いと思って黙って帰らせてもらいました。でも本当に自分を誘ってくれるんですか?洋楽のことよくわからないし、和太鼓の世界しか知らない自分でいいんですか?」と言う。
「俺は洋楽の世界しか知らないんだよ。おまえの知ってる和太鼓の世界を俺に教えて欲しいからおまえを誘ったんじゃない。やってみたいと思ってくれたのなら、力を貸してくれないか?」
少しの沈黙の後、タカラが言った。
「やってみたいんです。頑張ります!」
受話器から聞こえたタカラの声は力強かった。

その5 スーパーベーシスト・川嶋一久(2002.5.31up)
和太鼓が二人になったことで、リズムの面でもいろいろなことができるようになっていった。
音楽的なことはもちろんだが、ビジュアル的にも二人の揃い打ちは見ごたえ十分だった。
これでライブは一段とカッコヨクなるぞ!そう確信した。

 和太鼓も三味線も本当に刺激的で、彼等とのセッションはますます楽しくなっていった。
日本的であることにはこだわったが、4ビート、8ビート、16ビート、レゲエ、ブルース、
果ては民謡風から美空ひばりまで、あらゆるジャンルの曲をやった。
サウンドが面白いのでいろんな曲をやってみたくなるのだ。
そうこうするうちに、ベースの浅井がある飲み会の時に「俺、実はギターやりたいんですよね…ベースあんまり自信なくて…」とつぶやいた。
もともと彼はギタリストであり、彼と金時の共通の知り合いにスーパーベーシストがいるから、彼をこのバンドに引き入れて自分は小針さんとツインでギターを弾きたいと言う。
「そんなに凄いの?」と聞くと彼が入れば鬼に金棒だと言う。
ギターはもう一本あってもいいかなと思っていたので「じゃあ今度連れてきてよ!」と頼んだのだが、自分からは誘えないから俺から誘ってくれと言う。
「何じゃそれは?」と思ったのだが、俺はどうやらそういうポジションにいたらしい。
それならということでその「スーパーベーシスト」にコンタクトを取り、会うことになった。
新宿のレオスタジオで待ち合わせたのだが、南こうせつさんのツアーメンバーとしてリハーサルをしていたそのスーパーベーシストこそ川島一久(以後、カズと言う)だった。

 浅井も金時も何故かカズに対してはビビッテいる様子だったので、きっと気難しくて感じの悪い奴なんだろうと勝手に想像していた。
だが、あにはからんや、俺の前に現れたそのスーパーベーシストはむちゃくちゃ感じのいい精悍な顔立ちの男だった。
一言話しただけで、「あ、こいつと一緒にやることになるな。」そう感じていた。
デモテープと譜面を渡し、編成を伝え「やってもらえるかな?」と聞くと「うん、やろうよ!面白そうだね!」
「ありがとうよろしく頼むよ!」たった数分で彼が六三四Musashiのメンバーになることが決定した。

 カズは文字通りスーパーベーシストだった。
ジャコ・パストリアスのようでもありマーカス・ミラーのようでもあり、
こいつにできないことなんてないんじゃないの?と思わせるくらいのテクニックの持ち主だった。
それだけではない。作曲面でもアレンジ面でもいかんなくその才能を発揮してくれた。
後にアルバム『Far East Groove』に収録された「舞」はカズの作品である。
いい曲を残してくれてありがとねカズ!今でも大事に使わせてもらってます。

その6 組曲YAMATO (2002.5.31up)
当時の六三四Musashiは、金時の誘いで始まったグループであったため、彼のヴォーカルを中心としたちょっとお笑い系の曲を演奏していた。(今の六三四Musashiからは想像もできないでしょう?)
彼の作る曲も詞もユニークで、メンバーみんなで楽しく盛り上がるには最高だったのだが、
和太鼓や津軽三味線の良さを知れば知るほど、自分で曲を書きたいと思うようになっていった。
ヒロシ、タカラ、伸ちゃんから学んだ、邦楽器の良さを十分に発揮できるような曲を作りたかった。

イメージは既にできていた。プログレッシブ・ハードロック!これしかない!
「起承転結」という形で変化する、スケール感のある壮大な4部構成の曲にしようと決めた。
当時のバンドのカラーとはかけはなれたイメージだったのだが、もうどうにも止まらない。伸ちゃん、ヒロシ、タカラを頻繁に家に呼び、曲作りをした。
津軽三味線や太鼓の多彩な技の数々を教えてもらい、自分のイメージに重ねていった。
「夜明け」「命の躍動感」「静から動へ」「爆発」流れは自然に決まっていった。
「唄はちょっと…」と言っていた伸ちゃんに無理やり歌ってもらうことにしたり、変拍子のリズムを和太鼓に要求したり、やさしく素直な彼等のおかげで曲はあっという間にできあがった。
しかしそこに大きな問題があった。この曲をやるためにはドラムとシンセが必要なのだ。
しかしそのメンバーはいない。「バンドの編成も考えないで曲作るなよ!」と皆さん思うだろうが、俺にはどうもそういうところがある。
「こういう曲をやりたい!」それだけだった。
「ドラムとシンセは使いたくないなあ。」と言っていた張本人がこれである。
本来であれば話にも何もならないのであるが、まあとりあえずということでデモテープを作り、リハーサルに持っていった。
みんなに聞かせたが、反応はあまり良くない。そりゃあそうだ。
「どうやってやるんですかこの曲?」「ちょっと凄すぎない?」などと言われたが、おかまいなしだ。
「ねえ金時、この曲だけでいいからドラム叩いてよ!」「浅井この曲簡単だからさ、シンセやってよ。」
今思うと、本当にとんでもない奴だ。許して下さい、当時のメンバーの皆さん…

そして半ば強引にできあがった曲が「YAMATO」という組曲だった。
これまでの六三四Musashiの歴史の中で、この曲を演奏しなかったライブはほとんど無い。
(みんなもう飽きてるんだろうなア… でも何故か、はずせないんだよねぇ…)

その7 尺八・佐藤英史(2002.5.31up)
しかし、この時の「YAMATO」は実はまだ完成されてはいなかった。
何か物足りないと思っていたのだが、ふと気がついた。
当時の六三四Musashiの編成自体が抱える一つの欠点がそこにあった。
シンセを除く全ての楽器が減衰楽器(アタック音が最大音で、時間とともに音が消えていってしまう楽器のこと)なのだ。
持続音のメロディが欲しい。でもシンセをメロディ楽器として使うことにはまだためらいがあったし、もともとギタリストの浅井に(無理やり弾いてもらっているのに)それを要求することは酷だった。

 邦楽器で持続音といえば、篠笛か尺八だ。
「そうだ尺八が入ったら、きっと凄いサウンドになるぞ。」
そう確信してすぐにメンバー探しを始めたが、知り合いにそんな奴がいるわけない。
こういう時、頼りになるのは伸ちゃんだ。聞いてみると知り合いに凄い奴がいるという。
(六三四Musashiというバンドにはよくもまあ、都合よく凄い奴が現れるものだ。)

 すぐ伸ちゃんから連絡をしてもらい、リハーサルに来てもらった。
佐藤英史(以後、エイジ)の登場だ。
彼は佐藤錦水という有名な尺八奏者の孫にあたり、民謡界でも名の通った家柄の出で、
いわばエリートだと聞かされていた。しかも実力は折り紙つきだと言う。
伸ちゃんもそうだったが、エイジの物腰は年齢に似合わず礼儀正しくて妙な風格があった。
「俺たちみたいな人種と付き合ってくれるのかな?」とちょっと不安に思ったが、彼がスタジオで音を出した瞬間、
鳥肌が立った。
予想していた何十倍も尺八の音は強烈だった。たったひとつの音で、世界を作ってしまうのだ。
それだけではない。こちらの洋楽的な要求にも対応できるだけの実力の持ち主だった。
「いいよ!いいよ!最高だよ!エイジ!」いきなり呼び捨てだ。彼のプレイには心底興奮した。
リハーサルが終わって、俺はエイジを褒めちぎるだけ褒めちぎって
「是非力貸して欲しいんだけど、一緒にやってくれないかな。」と言うと
「面白そうですから、やってみましょうか。」と落ち着き払って彼はクールに答えた。
うーんこいつもいい奴だ!
彼は尺八だけでなく、篠笛や能管の名手でもあり、俺が思っていた以上の刺激と可能性を六三四Musashiに持ってきてくれた。
言うまでもなく彼の加入によって「YAMATO」という曲は完成し、俺の中で六三四Musashiの目指すものが明確なものとなった。
1991年のことである。

この時、和太鼓、尺八、三味線、ギター、ベース、キーボード、ドラムという現在の六三四Musashiの編成が決まり、この年を六三四Musashi結成の年としている。

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