〜第T章 憧れのアメリカへ〜

その1 序章、アメリカへ(2000/4/13up)
1984年の秋だったと思う。
当時俺はギタリストとして宇崎竜童氏のプロジェクトを中心に活動していた。
氏のソロ活動のサポートメンバー、映画音楽、舞台音楽、CM音楽、
松坂慶子さんや時任三郎さんのプロデュースワークなど
ミュージシャンとしては本当に恵まれた環境で仕事をしていた。
ところが、宇崎氏が俳優として映画の撮影に入ることになり、
久しぶりの長い休みをもらえることになったのだ。
考えたことはただひとつ「アメリカに行こう!」だった。

それまでの俺の海外経験は、情けないかな、遊びで行ったハワイだけ。
本場のライブハウスやジャズクラブ、コンサート、
ついでに当時はまだ日本にはなかったディズニーランド、
そしてラスベガス,グランドキャニオン、
それらの全てをこの目で見、肌で感じてみたい一心だった。
本当はニューヨークに行きたかったが、多少のビビリもあったし、
L.A.に友達がいたこともあり、とりあえずウエストコーストを目指し、
格安のオープンチケットとわずかな金を握り締め、憧れのアメリカへと旅立った。

・・・と言うと聞こえはいいが、ソウル経由の大韓航空だったため、
韓国へと旅立ち、韓国から改めてアメリカへと旅立ったというのが実は正しい。
その2 旅の初日(2000/4/16up)
文字通り、カリフォルニアの蒼い空に迎えられ、L.A.の空港に降り立った。
右も左も分からない状況の中、sight-seeing、two weeksと連呼し通関をクリアした。
何とかなるもんだ。

外に出ると友人が迎えに来てくれていた。
彼は彫刻家で、勉強と称してL.A.に1年ほど滞在していた。
一年もいれば英語はペラペラだろうと期待していたのだが、ほとんど喋れないと言う。
人生そんなに甘くない・・・

彼自身が居候の身であったため、とりあえずはダウンタウンのモーテルに宿を取った。
とは言え、帰る日も決めていない貧乏旅行、部屋の片隅にカーテンが引いてあり、
そこがシャワーブースといった具合のファンタスティックな部屋だった。
ともあれアメリカに着いた!
再会を祝して、友人とバドワイザーで乾杯をし、
バーガーキングのハンバーガーでディナーを食し、その日は眠りについた。
希望に燃える旅の初日であった。
その3 かっこいいロス、かっこ悪いおれ(2000/4/17up)
アメリカはデカかった。ロスは広い。車が無ければどうしようもない。
幸い友人が車を調達してくれたため、翌日からロス中を走り回った。
ハリウッド、メルローズ、サンタモニカ、マリナ・デル・レイ、
見るもの全てが新鮮で驚きの連続だった。
特にグリフィスパークからの夜景は特筆ものだった。
あんなにデカイ夜景は見たことが無い。アメリカ最高だぜ!

食事は毎日ハンバーガーかピザ、ビールはバドワイザー。
これがまたうまい!
日本にいる時はハンバーガーなどほとんど食べないし、
バドワイザーなんてちっともうまいと思わなかったが、
ロスで口にすると何故かうまい。
気候風土の関係なのだろうか。不思議だがこれは今でもロスに行くとそう感じる。

ただひとつ、ガックリきたのは日本人の観光客に出会ったときだ。
どうにもこうにもカッコ悪い! ロスの街にはぜんぜん似合わない。
せっかくのアメリカ気分が台無しになる。
そんな事を思いながら、ウィンドウに写った自分の姿を見て愕然とした。
なんだ俺もカッコ悪いじゃん……
その4 本場の音、ブルース(2000/4/18up)
一通りの観光を終え、日本人向けのフリーペーパー、
“ゲイトウェイ”とにらめっこをしながら、ライブめぐりを始めた。
ハリウッドボウル、ユニバーサルアンフィシアター等の野外劇場、コンサートホールから
ベイクドポテト、ロキシー等のライブハウス、果てはベニスビーチのストリートパフォーマンスまで、
とにかくなんでもかんでも見て回った。

かなりの数のライブを見たが、中でもあのグレイトフル・デッドのギタリスト、
ジェリー・ガルシアのソロライブはすごかった。
大物にもかかわらず300人も入れば満杯といった小さな小屋でのライブだった。
マリファナの煙が充満した会場で、観客のリアクションもも半端じゃなかったが、
とにかく手を伸ばせば届きそうなところであのガルシアが演奏しているのである。
4リズムの編成で、延々とブルースをやりまくるだけのライブだ。
MCも無く、照明もシンプル、バーボンを飲みながらその音に酔った。
ムチャクチャかっこいい!

日本で俺が聞いていたブルースは一体何だったのか。やはり本物にはかなわない。
アメリカのミュージックシーンの奥の深さを目の当たりにした思いがした。
その5 ハンバーガー屋での出来事(2000/4/20up)
モーテル暮らしにも疲れた頃、画家を目指してロスに来ていた日系人の
ペンキ屋さんの家に2〜3日泊めてもらうことになった。
彼はダウンタウンから車で30分ぐらい南に下ったところにある
ロングビーチという町に住んでいた。
海沿いの町で軍港があるのか、海には軍艦が何隻も浮かんでいた。

ロングビーチはかなり閑散とした町で、彼の家の近所にはスーパーはおろか店が無い。
昼間は彼が車で仕事に出かけてしまうため、俺は近所を散歩した。
だが「一人歩きはかなり危険だから気をつけろ」と脅かされていたので、
のどかな散歩ではなく、まるで探検気分だった。
30分ぐらい歩いたところに海の見える公園がありその中にハンバーガー屋があった。
と言っても、マックやバーガーキングのような店ではなく、
よくアメリカ映画に出てくる、怪しい奴等がたむろしているといった風情の店だ。
腹がへっていたので、ビビリながらも店の周りをぐるぐると回りながら、
中の様子を伺った。
5〜6人の客がいるようだが、全部太った親父だ。しかも外人ばかり。
(いやここでは俺が外人だ)
昼間から酒をくらっている。完璧にやばそうだ。
しばらくためらっていたが、他に店も無く、空腹をこらえきれず意を決して中に入った。

全員の視線が俺に集まった。(そんな気がした。)
“Hamburger&beer please.” というと店の奴が訝しげに聞いてきた。
“Beer? How old?” きっと子供に見えたのだろう。
仕方なくパスポートを出し、ビールとハンバーガーを受け取り席に着いた。
しばらくするとビールを片手に太った親父がやってきた。“Are you Chinese?”
日本人だと答えると、笑いながら“Remember Pearl Harbor.”そして
“I hate Japanese.”と言った。すると店にいた他の客も大声で笑った。

そんな!パールハーバーなんて俺は知らねえよ。
会ったばかりなのに、日本人だというだけで、俺は嫌われちゃうのか?
アメリカにおける日本人のイメージを、ロングビーチという片田舎で
一人の太った親父に教えてもらった。
その6 赤とんぼ(2000/4/20up)
カッコいいアメリカとカッコ悪い日本人の俺。
ロスにいる間、そのことを感じていた。アメリカのミュージックシーンに憧れて
ギターを始め、日本ではそこそこ食えていた俺だったが、所詮 猿真似だった。
名も無いアマチュアのミュージシャンでさえ、音が違っていた。
テクニックとは別の次元の、一音の太さ、一拍の長さが違うのだ。
DNAの違いってやつを肌で感じてしまった。

ウキウキ気分だった俺のアメリカ旅行は、だんだんとセンチメンタルジャーニーに
なっていった。わずか数ヶ月の旅ではあったが、金も底をついてきたことだし、
そろそろ日本に帰ろうと思うようになった。しかしひとつやり残していることがあった。
グランドキャニオンに行ってないじゃないか。これぞアメリカというデカイ景色、
これを経験しなきゃ帰れない。

ロスの友人達も付き合ってくれるというので、早速向うで知り合ったおかまの
トラベルエージェントにチケットを手配してもらい、旅立った。
まずはラスベガスの空港へ行き、そのまま20人乗りぐらいの
小型の飛行機に乗り換え、グランドキャニオンへ向かった。
空から見るグランドキャニオンは圧巻だった。
広大な大地が大河に削り取られてできた自然の芸術が目の前に横たわっている。
言葉も出ない。
飛行機を降り、そこからサウスリムというところへ行った。
観光宣伝用のグランドキャニオンの写真はほとんどここからの景色だそうだ。
俺も本か何かで見たことののある景色だったがやはり本物は凄い。
何せ1000mも垂直に切り立った崖だ。
それまでの人生で、大地に足を下ろして1000m下を覗いたことなどあるわけが無い。

現地に着いたのは夕暮れ時だったのだが、グランドキャニオンに
赤とんぼが飛んでいた。
ああアメリカにも赤とんぼがいるんだなあと思いながら、真っ赤に染まる空と
雄大な景色の中で感傷に浸っていた時、突然友人が唄い始めた。

「夕焼け小焼けぇのぉ 赤とんぼぉ 追われぇてみたのぉはぁ いつのぉ日ぃかぁ」

衝撃だった。
下手な唄だったが、深く深く心に響いた。
何故かわからないが涙が出た。俺も声を出して一緒に唄った。
日本にもこんなにいい唄があったんだ。日本も捨てたもんじゃない!
俺はこの唄を聞くためにアメリカに来たのかもしれない…
俺の中で何かが変わった瞬間だった。
そしてこの経験が後に六三四Musashiを生み出す原動力になったのは言うまでもない。
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